「ヨハネ伝第9章「神の業の顕れ」の解釈」
2024年(令和6年)6月22日
寺田 誠一
聖書のヨハネ伝第9章に、次のような言葉があります。
「イエス途往くとき、生まれながらの盲人を見給ひたれば、弟子たち問ひて言ふ『ラビ、この人の盲目にて生まれしは、誰の罪によるぞ、己のか、親のか』イエス答へ給ふ『この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業の顕れん爲なり。』
この「神の業の顕れん爲なり」の解釈です。宗教色を排した解釈ができないものかと以前から考えてきました。(余談ですが、聖書はやはり口語体よりも文語体のほうが、格調高いので好きです。)
ハンディキャップのある方も、ある分野では健常者と同じようにあるいはそれ以上に活躍可能である、という解釈があると思います。しかし、この解釈は、ピアノの辻井伸行さんや書家の金澤翔子さんなど一部の方にはあてはまりますが、一般的なハンデのある方々にはあてはまらないので、この解釈は妥当ではないと思います。
そこで、私見の解釈を示してみます。たとえば、先天的に(あるいは後天的に)、五感や五体に欠陥があると、他の部分で、あるいは道具・器具などでそれを補おうとすると思います。その必死懸命な努力や意志の力が「神の業の顕れ」ではないかと思うのです。
私見をまとめると、「人間は、厳しい環境にあっても、それに負けないで、勇敢に生きていくことができるということを示すため」。