「ご挨拶・・・子どもの結婚式、親の葬儀」

 

2025年(令和7年)1月5日(最終更新2025年1月16日)

寺田 誠一

 

 過去の結婚式や葬儀の挨拶文を記してみます。 

  

・披露宴 新郎父 挨拶(2010年(平成22年)5月)

 

 新郎の父の寺田誠一と申します。

 

 先ほどからのお話を聞いたり写真を見たりしていますと、別々の人生を歩んでいた2人が出会って結婚に至るというのは本当に不思議な気がいたします。よく赤い糸で結ばれていたと申しますが、結婚する運命は決まっていたのか、それとも偶然が積み重なったものなのか。この偶然か、必然かは、考え始めると、夜も眠れなくなってしまいます。ところが、日本には昔からよい言葉があります。「縁」です。「縁結びの神」とか「袖触れ合うも多生の縁」の「縁」です。「ご縁」があったから、2人は結婚に至ったのだと思います。

 

 また、今日、この会場にいらっしゃるのはすべて新郎新婦と親戚・友人・会社関係など何らかのご縁のある方々です。ご縁のない方はいらっしゃらないわけです。新郎新婦には、今後ともこのご縁を大切にしていってほしいと思います。ご臨席の皆様方には、若い2人を、今後とも見守り励ましてくださるようお願い申し上げます。

 

 さて、今日の結婚式・披露宴が終わりますと、これから日々の日常的な生活が始まります。末長く結婚生活を続けていくために何が大事かと言うことですが、私は2つ挙げたいと思います。

① 結婚は、進学・就職などと並んで、人生の大きな決断です。新婚生活は、今まで住んでいた場所から引っ越し、環境や人間関係も大きく変わるかも知れません。相手の結婚を決めた決断に対して、その決断は間違っていなかった、正解だったと思ってもらえるようずっと心がけることが大事だと思います。

② もう1つ、昔の映画やテレビの時代劇に出てくるセリフが結婚生活の参考になると思います。主役と敵役(かたきやく)とが一騎打ちで戦う場面で、どちらも強くていっこうに勝負がつかない。そのとき言われるのが「おぬし、なかなかやるか」というセリフです。尊敬というと大げさですが、「おぬし、なかなかやるか」という気持ちをずっと持ち続けることが大事だと思います。

 

 私の話は長くなりましたので、このへんで終わらせていただきます。本日は、2人のためにご出席いただき、誠にありがとうございました。

 

 

 

・父の告別式 挨拶(2000年(平成12年)8月)

 

 私は、故人の長男の寺田誠一と申します。喪主である母に代わりまして、ひとことご挨拶申し上げます。

 本日は、お暑い中、またご多用中のところ、故人のため、お集まりいただき、ありがとうございました。

 顧みますと、故人は、横浜市港南区日野の出身であり、Y校・Y専を卒業し、この前の戦争では東南アジアに出征いたしました。苦しいことも多かったと思うのですが、故人から戦争中の話を聞いたことはありません。それで、幸い、日本に無事帰ることができ、母と結婚して、私と妹が生まれました。

 そして、藤棚の商店街で、義父が創業した呉服店を引き継ぎ営んできました。もともとは、損害保険会社の経理マンでしたので、畑ちがいの仕事で苦労も多かったのではないかと思います。呉服店を閉店した晩年は、私の会計事務所を手伝ってもらいました。私が公認会計士・税理士の道へ進んだことは、親孝行になったのではないかと思っております。

 また、商店街・町内会の役員を務めさせていただき、地元の皆様には、たいへんお世話になりました。

 故人は、無口で口数の少ない人であり、愚痴を言ったのを聞いたことはありません。温厚誠実でたいへんおだやかな性格でした。

 これといって大きなこと・有名なことを成し遂げたわけではありませんが、まじめにコツコツと生きた80年の生涯であり、立派であったと思います。意識がなくなって病室で入院しているとき、「今までよくがんばったね。」と、私は心のなかで語りかけました。故人の霊も満足していることと思います。心おきなく、安らかに旅立ったと信じております。

 さて、残された遺族は、母と、子どもは私と妹、それぞれのつれあい、それから孫が3人でございます。故人同様、今後ともご指導・ご交際の程よろしくお願い申し上げます。

 本日は、誠にありがとうございました。

 

  

 

・母の告別式 挨拶(2012年(平成24年)9月)

 

 私は、故人の長男の寺田誠一と申します。遺族を代表しまして、ひとことご挨拶申し上げます。

 本日は、暑い中、またご多忙中のところ、故人のためお集まりいただき、ありがとうございました。

 故人は、戸籍上は「好(よし)」ですが、本人は子を付けて「好子(よしこ)」と言っておりました。

 先週の水曜日に船員病院に入院して、意識もはっきりしていたのですが、日曜の深夜、正確には月曜の午前2:00に、容体が急変し永眠いたしました。肺炎ということですが、肺・心臓・腎臓みな弱っていたようです。本人も、次の桜は見られないかもしれないと言っておりました。

 顧みますと、故人は呉服店の娘として生まれ、今の平沼高校、当時の県立第一高女(有名な卒業生は、岸恵子さん・草笛光子さん)を卒業しました。その後、戦争を経験し、終戦後、父と結婚し、藤棚の商店街で、親の後を継いで父と一緒に呉服店を長く営んで参りました。30年前に呉服店はやめましたが、その後、旅行に行ったりおいしいものを食べることが好きで、楽しく過ごして参りました。12年前に父が亡くなってからは1人暮らしとなりましたが、自分でできることはできるだけ自分でやるという意欲がありました。

 満で88歳、数えで90歳の生涯であり、家族思いで、子ども2人、孫3人、ひ孫1人に恵まれました。教育熱心で、私と妹が中学受験で難関校に合格したことは、ひそかな自慢だったと思います。また、よく得意気に話していたことは、戦争中、「ドック(今の三菱重工)」に勤労動員で行っていたそうです。ある日、気分が乗らないのでずる休みをしたら、その日が米軍の横浜大空襲だったとのことです。予知能力があったと得意がっていました。

 小さいときは体が弱かったので、こんなに長く生きるとは思わなかったと、最近はよく申しておりました。思い残すことなく、安らかに旅立ったと信じております。自分の名前のとおり、このへんで「よし」と言っているものと思います。ですから、明るく見送りたいと思います。

 ここに、生前のご厚誼に深く感謝申し上げますとともに、今後とも、私ども遺族に変わらぬご厚情を賜りますようお願い申し上げます。

 本日は、誠にありがとうございました。