「寺田誠一の人生の目的論と方法論~唯物論と死後意識存続論」 

 

2023年(令和5年)9月23日(最終更新2025年1月20日)

寺田 誠一

  

 かつて、私(寺田)は、52歳のとき、出身高校のOB誌に、下記のような小論を書いたことがあります(一部改)。唯物論と死後意識存続論のどちらの立場にたっても、納得・共感できるような人生論はないものだろうかという問題意識で書いたものです。現在でも、下記に述べた基本的な考え方に、変わりはありません(しいて変化を言えば、この文を書いた後、小林正観さんの考え方を知ったということでしょうか。)。

 

 出典:寺田誠一稿『若い人々に贈る人生論の試み』栄光学園高校同窓会誌「THE EIKO ALUMNI」2002年(平成14年)5月1日号

 

 

〔1〕人生の目的論

 

 「何のために生きるのか」という人生の目的論ですが、これは「何のために勉強するのか」「何のために働くのか」「何のために生まれたのか」「人生の目的はなにか」と言い換えることもできます。

 これらの質問に対する答えは、いろいろ考えられます。ここでは、私の気に入っている答え方をご紹介します。第一は、自分の人間性を高め、人間として成長・発展・進歩・向上して行くためです。第二は、よい世の中・よい日本・よい世界・よい地球をつくるためです(後ほど、社会や自然のおかげで人間は生かされていると述べますが、そのありがたさを思うと、社会や自然に少しでも恩返しをしたいと思うのです。)。

 第一の、人間性を高めて行くということは、品性・品格・気骨・気概・人間の器などと言われるものだと思います。これは、仕事や家庭を通じ生きて行くなかで、さまざまな経験を積み、感謝・感激・感動し、自分で気付いて行くことにより、向上して行くのではないでしょうか。

 第二の、世のため人のため活動するということは、大きなことや有名なことをしなくても、それぞれの持ち場や立

場で、自分の職務を果たしてお役に立つことが、すなわち、よい世の中につながるのだと思います。

 

 話は変わりますが、死後どうなるかについて、対立する二つの考え方があります。一つは、考えたり、喜んだり、悩んだりする自分という意識は脳の働きであるから、死んで脳が活動を止めれば、自分という存在は無くなってしまうと考える唯物論です。他の一つは、自分という本体は脳とは別であるから(脳は受信機に過ぎないから)、心や魂と呼ばれる本体は、死後もあの世であるいは生まれ変わって生き続けると考える死後意識存続論(魂不滅論)です。

 脳や臨死体験・前世療法の研究は進んでいますが、現在のところまだ、どちらの説も、反対説を納得させるだけの決定的な証拠は無いようです。ですから、自分がどちらの仮説を採るかは、どちらの説を信じるか、あるいは、どちらの説が好きかで決めればよいのではないかと思います。

 

 先ほど述べた人生の目的論は、そのどちらの仮説とも結び付きます。自分自身が成長し、世の中のために力を尽くしてきたとき、唯物論を採るならば、後の世代の人々に、自分の経験を伝え、自分のやり残したことを託すと考えればよいと思います。また、意識存続論を採るならば、死後もなおそのような努力や成長は続いて行くと考えればよいと思います。

 

〔2〕人生の方法論

 

 「いかに生きるのか」という人生の方法論は、言い換えると「人生において何が大事か」ということです。大事なことはいろいろありますが、ここでは四つのことをお話しします。

 

① 生かされていることについて

 

 これは、垂直面と水平面で考えることができます。

 

 垂直面とは、自分の祖先を考えることです。自分の両親は2人、祖父母は4人、曽祖父母は8人です。このように考

 えて行くと、10代さかのぼると1千人、20代さかのぼると100万人、30代さかのぼると10億人という膨大な数になります。これらのうち1人でも欠けていたら私は存在していないと考えると、自分がこの世に生まれたことは、ほとんど奇跡だと思えます。

 

 水平面とは、現在の社会と自然を考えることです。

 私たちは、衣食住や仕事・趣味などに必要なものを、全部自分で用意しているわけではありません。現在の社会は、分業という制度で成り立っています。私たちの食べるもの・着るもの・生活に必要なものなどは、日本中世界中の誰かが、考え作って運んでくれたものです。私が生きて行けるのは、私以外の多くの人々のおかげであるということが言えます。

 また、人間が生きて行けるのは、水・空気・土・植物・動物などが存在しているからです。もう少し広く言うと、地球・太陽・宇宙があるおかげです。逆に、ミクロ的には、脳・心臓・胃腸・肺・血液・神経などが、あるいは、細胞・分子・原子・DNAなどが、それぞれの役目を果たしてくれるので、人間は生きて行けるわけです。

 

 このように、垂直面(祖先)と水平面(社会と自然)を考えると、人間が生きているというのは、たいへん不思議なことだと思えます。「生きている」というより、「生かされている」のであり、とてもありがたいという気持ちになります。

 

② 幸運の女神について

 

 人生で起こることは、偶然と言うか神の摂理と言うか、いずれにしても、人知では計り知れないものです。誰と出会い、どんなことが起こるのか、まったくわからないわけです。

 いわゆる成功者と言われる人たちは、回想や自伝で、異口同音に、自分は運がよかったということを言っています。幸運の女神に好かれるかどうかが、人生を左右する大きなポイントかも知れません。

 そこで、問題は、どのようにしたら幸運の女神が微笑むかですが、次のような行動が、幸運の女神に好かれる秘訣

 だと思います。

・ビジネスや仕事において、良心的な態度で臨むこと。

・見返りを求めないで、人や自然に親切にすること。

・他人(特に、自分より恵まれている人・自分の身近な人・自分のライバル・自分と気の合わない人など)の幸せを、喜べること。

・お金が入ったときに、貪らないこと。

 

③ 苦しいこと悲しいことについて

 

 人生においては、失敗・苦難・挫折・悲哀など、苦しいことや悲しいことがあります。それらをどう考えるかです。それは、学生時代に、数学や英語の問題を解いたのと同じように考えればよいと思います。力を付けるためには、やさしい問題だけでなく、そのときの自分の力より少し上の難しい問題を、一所懸命解いて行く必要がありました。

 人生においても、喜ばしいことばかりでは、人間としての力が付きません。苦しいことや悲しいことの試練は、それを乗り越えて(がんばれば克服できる程度のものが出現すると考えればよいと思います。)、人間のレベルを上げ、らせん状に成長していくための学びの機会であるという積極的・肯定的な考え方が大事だと思います。

 

④ 人間関係の悩みについて

 

 私たちの悩みの一つに、人間関係の悩みがあります。多くの人にとって、気の合わない人、顔を見たくない人などがいるものです。

 そのような人間関係の悩みについては、聖徳太子の言葉が参考になると思います。聖徳太子には有名な十七条の憲法がありますが、その第十条に「我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。共にこれ凡夫のみ。」という言葉があります。

 この言葉を、私は、次のように解釈しています。すなわち、「自分は必ずしも完全な人間ではない。未熟・不完全

なところもある。自分の嫌いなあの人は、必ずしも悪いところ・ひどいところばかりではない。すばらしいところもある。自分もあの人も、共に完全や理想に向かって歩んでいる発展途上の人生の旅人である。」というようにです。

 心のなかであの人は許せないと思うのではなく、今はお互いに未熟な面がぶつかっているため残念ながら仲良くできないが、私が成長しあの人も成長すれば将来仲良くなれるかも知れないという含みを残し、心のなかであの人と和解しておくということが大事だと思います。

                                           ___終わり__

 

  

・唯物論と死後意識存続論のどちらに賭けるか

 

 上記の小論でも述べたように、死後、意識が存続するかしないかについては、存続しないと考える「唯物論」と存続すると考える「死後意識存続論」とがあります。

 

 現在のところ、どちらの説も証明されていないので、仮説なわけです。ただし、どちらの説を採るか、どちらの説を信じるか、どちらの説に賭けるかによって、結果に大きな差異が生じます。

 

 唯物論を採ってそれが正しかった場合、死後意識はないのですから、自分が正しかったという認識をすることはできません。逆に、唯物論を採ってそれが正しくなかった場合、つまり死後意識があるという場合、自分の考えは誤っていたと認識することになります(「あっ!死が終わりではなかった!唯物論は誤りだった!死後意識存続論が正しかった!」と思うことになります)。

 死後意識存続論を採ってそれが正しかった場合、意識はあるわけですから、自分の考え方は正しかったと認識することになります(「やはり、死後、意識は存在した!」と思うことになります。)。逆に、死後意識存続論を採ってそれが正しくなかった場合、つまり死後意識がなかった場合、自分の考えが誤っていたと思うことはあり得ません。

 

 唯物論を採った場合、死後自分が知ることができるのは、誤っていたという場合だけです。死後意識存続論を採った場合、死後自分が知ることができるのは、正しかったという場合だけです。ですから、賭けるのでしたら、死後意識存続論の方が圧倒的に有利です。

 

 なお、上記の考え方(「賭の精神」)はパスカルのパンセ(瞑想録)に記されているとのことです。私は、フランス語はわからないのですが、渡部昇一さんの著書より教えていただきました(パスカルは、上記の「死後の意識存続」を「神の存在」として議論しています。)。なお、上記の考え方は、飯田史彦さんの著書にも紹介されています。

 

(参考文献)

渡部昇一著「パスカル『瞑想録』に学ぶ生き方の研究」致知出版社、2006年 

飯田史彦著「生きがいの創造」PHP研究所、1996年

 

 

・唯物論と死後意識存続論のどちらを採るか

 

 さて、私(寺田)は唯物論と死後意識存続論のどちらの説を採るのかと問われたら、立花隆さんの言葉を借用して、次のように答えたいと思います。「私(寺田)は、基本的には死後意識存続論が正しいだろうと思っているものの、もしかしたら唯物論が正しいのかもしれないと、そちらの説にも心を閉ざさずにいる。(※)」」というようにです。

 

(※)立花隆さんの元の言葉は、次のとおりです。「(臨死体験に関して)基本的には脳内現象説が正しいだろうと思っているものの、もしかしたら現実体験説が正しいのかもしれないと、そちらの説にも心を閉ざさずにいる。」立花隆著「臨死体験」文藝春秋、1994年

 立花隆さんの脳内現象説=唯物論、現実体験説=死後意識存続論と読み替えることができます。すなわち、私の考えは、立花隆さんとは逆です。

 

 なお、付言すると、立花隆さんの後継書として、駒ヶ嶺朋子著「死の医学」集英社、2022年 が挙げられます。死後意識存続論にも丁寧に配慮しながら基本的に唯物論を採っているという点は同じですが、臨死体験や体外離脱について最新の脳医学が紹介されています。

 

 

・死後意識存続論の発展性  

 

 人間は心臓や脳が活動を中止すると臨終となり、死が訪れます。その後、遺体を火葬場で焼いて遺骨となり、それを墓地に納骨します。目に見えるものは、それだけです。唯物論を採ると、人間は死で終わりで、それ以上発展する余地がありません。

 

 一方、死後意識存続論を採ると、たとえば、次のような広大な分野が広がっています。

・臨死体験

・体外離脱(幽体離脱)

・憑依、除霊

・霊言(霊界通信)

・霊界見聞

・霊聴

・生まれ変わり(再生、輪廻転生)

・胎内記憶

・前世療法

 

 ただし、これらは、客観性(誰もが同じように体験可能)、再現性(同じ条件でもう一度体験可能)がないため、客観的証拠(エビデンス)に乏しいということが言えます。そのため、唯物論からは、これらは脳の(未知の)働き、幻覚、幻影、幻聴、錯覚、錯誤、思い込み、作り話、精神病などによるものと言われます。また、一般論として、これらは、真偽がはっきりしなく、荒唐無稽(こうとうむけい)と紙一重であるので、盲信・独りよがり・奇人変人にならないよう注意が必要です。

 

 それでも、これらについては、過去から現在まで、多くの文献・資料・記録・研究が残っています。その中には、本当のもの(死後意識存続を示しているもの)もあるのではないかと思うのです。

 

 私(寺田)が、これらの研究の中で、特筆すべきと考えているのは、近代スピリチュアリズムです(矢作直樹著「人は死なない」パジリコ、2011年に、近代スピリチュアリズムの歴史が簡潔かつわかりやすくまとめられています)。

 その近代スピリチュアリズムの中でも、その内容がすばらしいと思うのは、古代霊シルバー・バーチの霊言です(日本では、近藤千雄さんの翻訳で読むことができます。)。

 

 また、最近、唯物論でも死後意識存続論でもない第三の道が登場してきました(広い意味では、死後意識存続論に属するものと考えることができますが。)。量子科学(量子論)によるものです。素人には難解ですが、田坂広志著「死は存在しない」光文社、2022年に紹介されています。