「唯物論と死後意識存続論のどちらに賭けるか」
2024年(令和6年)6月9日(最終更新2024年7月15日)
寺田 誠一
死後、意識が存続するかしないかについては、存続しないと考える「唯物論」と存続すると考える「意識存続論」とがあります。
現在のところ、どちらの説も証明されていないので、仮説なわけです。ただし、どちらの説を採るか、どちらの説を信じるか、どちらの説に賭けるかによって、結果に大きな差異が生じます。
唯物論を採ってそれが正しかった場合、死後意識はないのですから、自分が正しかったという認識をすることはできません。逆に、唯物論を採ってそれが正しくなかった場合、つまり死後意識があるという場合、自分の考えは誤っていたと後悔することになるかもしれません。
死後意識存続論を採ってそれが正しかった場合、意識はあるわけですから、自分の考え方は正しかったと認識することになります。逆に、死後意識存続論を採ってそれが正しくなかった場合、つまり死後意識がなかった場合、意識はないので自分の考えが誤っていたと残念がることはあり得ません。
唯物論を採った場合、死後自分が知ることができるのは、誤っていたという場合だけです。死後意識存続論を採った場合、死後自分が知ることができるのは、正しかったという場合だけです。ですから、賭けるのでしたら、死後意識存続論の方が圧倒的に有利です。
もう少し現実的には、たとえ唯物論を採っていても、ほんの少し死後意識存続論の可能性を考慮しておいた方がよいと思います。もし万が一、死後意識が存続しても戸惑わないようにしておくとよいのではないでしょうか。
なお、上記の考え方(「賭の精神」)はパスカルのパンセ(瞑想録)に記されているとのことです。私は、フランス語はわからないのですが、渡部昇一先生の著書より教えていただきました(パスカルは、上記の「死後の意識存続」を「神の存在」として議論しています。)。なお、上記の考え方は、飯田史彦先生の著書にも紹介されています。
(参考文献)
渡部昇一著「パスカル『瞑想録』に学ぶ生き方の研究」致知出版社、2006年
飯田史彦著「生きがいの創造」PHP研究所、1996年
・私の唯物論と死後意識存続論に対する考え
さて、私は唯物論と死後意識存続論のどちらの説を採るのかと問われたら、立花隆さんの言葉を借用して、次のように答えたいと思います。「私は、基本的には死後意識存続論が正しいだろうと思っているものの、もしかしたら唯物論が正しいのかもしれないと、そちらの説にも心を閉ざさずにいる。(※)」」というようにです。
(※)立花隆さんの元の言葉は、次のとおりです。「(臨死体験に関して)基本的には脳内現象説が正しいだろうと思っているものの、もしかしたら現実体験説が正しいのかもしれないと、そちらの説にも心を閉ざさずにいる。」立花隆著「臨死体験」文藝春秋、1994年
立花隆さんの脳内現象説=唯物論、現実体験説=死後意識存続論と読み替えることができます。すなわち、私は、立花隆さんとは逆の考え方を採っています。