「唯物論と死後意識存続論」
2024年(令和6年)6月9日(最終更新2024年10月6日)
寺田 誠一
・唯物論と死後意識存続論のどちらに賭けるか
死後、意識が存続するかしないかについては、存続しないと考える「唯物論」と存続すると考える「意識存続論」とがあります。
現在のところ、どちらの説も証明されていないので、仮説なわけです。ただし、どちらの説を採るか、どちらの説を信じるか、どちらの説に賭けるかによって、結果に大きな差異が生じます。
唯物論を採ってそれが正しかった場合、死後意識はないのですから、自分が正しかったという認識をすることはできません。逆に、唯物論を採ってそれが正しくなかった場合、つまり死後意識があるという場合、自分の考えは誤っていたと後悔することになるかもしれません。
死後意識存続論を採ってそれが正しかった場合、意識はあるわけですから、自分の考え方は正しかったと認識することになります。逆に、死後意識存続論を採ってそれが正しくなかった場合、つまり死後意識がなかった場合、意識はないので自分の考えが誤っていたと残念がることはあり得ません。
唯物論を採った場合、死後自分が知ることができるのは、誤っていたという場合だけです。死後意識存続論を採った場合、死後自分が知ることができるのは、正しかったという場合だけです。ですから、賭けるのでしたら、死後意識存続論の方が圧倒的に有利です。
もう少し現実的には、たとえ唯物論を採っていても、ほんの少し死後意識存続論の可能性を考慮しておいた方がよいと思います。もし万が一、死後意識が存続しても戸惑わないようにしておくとよいのではないでしょうか。
なお、上記の考え方(「賭の精神」)はパスカルのパンセ(瞑想録)に記されているとのことです。私は、フランス語はわからないのですが、渡部昇一さんの著書より教えていただきました(パスカルは、上記の「死後の意識存続」を「神の存在」として議論しています。)。なお、上記の考え方は、飯田史彦さんの著書にも紹介されています。
(参考文献)
渡部昇一著「パスカル『瞑想録』に学ぶ生き方の研究」致知出版社、2006年
飯田史彦著「生きがいの創造」PHP研究所、1996年
・唯物論と死後意識存続論のどちらを採るか
さて、私(寺田)は唯物論と死後意識存続論のどちらの説を採るのかと問われたら、立花隆さんの言葉を借用して、次のように答えたいと思います。「私(寺田)は、基本的には死後意識存続論が正しいだろうと思っているものの、もしかしたら唯物論が正しいのかもしれないと、そちらの説にも心を閉ざさずにいる。(※)」」というようにです。
(※)立花隆さんの元の言葉は、次のとおりです。「(臨死体験に関して)基本的には脳内現象説が正しいだろうと思っているものの、もしかしたら現実体験説が正しいのかもしれないと、そちらの説にも心を閉ざさずにいる。」立花隆著「臨死体験」文藝春秋、1994年
立花隆さんの脳内現象説=唯物論、現実体験説=死後意識存続論と読み替えることができます。すなわち、私は、立花隆さんとは逆の考え方を採っています。
なお、付言すると、立花隆さんの後継書として、駒ヶ嶺朋子著「死の医学」集英社、2022年 が挙げられます。死後意識存続論にも丁寧に配慮しながら基本的に唯物論を採っているという点は同じですが、臨死体験や体外離脱について最新の脳医学が紹介されています。
・死後意識存続論
人間は心臓や脳が活動を中止すると臨終となり、死が訪れます。その後、遺体を火葬場で焼いて遺骨となり、それを墓地に納骨します。目に見えるものは、それだけです。唯物論を採ると、人間は死で終わりで、それ以上発展する余地がありません。
一方、死後意識存続論を採ると(死後意識存続を仮定すると)、たとえば、次のような広大な分野が広がっています。
・臨死体験
・体外離脱(幽体離脱)
・憑依、除霊
・霊言(霊界通信)
・霊界見聞
・霊聴
・生まれ変わり(再生、転生)
・胎内記憶
・前世療法
ただし、これらは、客観性(誰もが同じように見れる等)、再現性(同じ条件でもう一度見れる等)がないため、客観的証拠に乏しいということが言えます。そのため、唯物論からは、これらは脳の(未知の)働き、幻覚、精神病、思い込み、錯覚などによるものと言われます。しかし、これらについては、過去から現在まで、文献などに多くの記録・研究が残っています。その中には、本当のもの(死後意識存続を示しているもの)もあるのではないかと思うのです。
私(寺田)が、それらの研究の中で、特筆すべきと考えているのは、近代スピリチュアリズムです(矢作直樹著「人は死なない」パジリコ、2011年に、近代スピリチュアリズムの歴史が簡潔にまとめられています)。
スピリチュアリズムの中でも、その内容を知っておくべきと感じるのは、古代霊シルバー・バーチの霊言です(日本では、近藤千雄さんの翻訳で読むことができます。)。